「お迎え」されて人は逝く

人の終末期。
意識が混濁している中で「この世に存在していない人に会った」など、
認知症でもないのに、変なことを言うと、
看取りする家族や医療者は戸惑うことが多い。

しかし、人は亡くなる時、あの世の使者と会い、
話をすることがあるのだそう。

がん終末期や老衰など、命の終焉を迎える時、
食事や水分を取らなくなり、眠っていることが増えます。
眠っている、意識が混濁するときに、
「お迎え」の姿が見えるようになるのです。

「お迎え」されて人は逝く

医師として、緩和ケアにかかわっている、
奥野滋子さんの著書。
「『お迎え』されて人は逝く~終末期医療と看取りの今~」を読みました。omukae

仙台市でがんや難病患者の在宅ケアを行っていた、
岡部医院の岡部健先生中心のグループが、2003~2007年に行った調査。
「お迎え」が来たという話を聞いた家族は、
アンケートを取った366人のうち、155人(42.3%)
そのうち、すでに亡くなった家族や知人が見えたのは、82人(52.9%)
身近な人が「お迎え」に来ることが多いようです。

*奥野滋子著「『お迎え』されて人は逝く~終末期医療と看取りの今~」より

「お迎え」が来た話は、周囲の家族や介護・医療従事者には、
おかしな話、頭がおかしくなった(せん妄)など、怪訝な顔をされると思う人は、
決して口にせずにそのまま旅立ってしまうから、
実際には、もっと多くの人は「お迎え」がきているのはないかとのこと。

亡くなった人の話を聞くことはできないけれど、
亡くなる前の「お迎え」が来ることは、思っていた以上に多い気がします。

「お迎え」は家族や知人など人に限らず、ペットなども、
あの世といわれる、三途の川やお花畑など場所などもあるようです。

「お迎え」とのやり取りをすることで、
「亡くなること=死が、よくわからない不安からくる恐怖」なのではなく、
あの世の人に導かれることによる安心感を与えられる。
「お迎え」が来て、穏やかに旅立てると思えるのだそう。

何事もわからないことには、不安がついてきます。
でもある程度の道筋がわかれば、不安が軽減することになると思います。
漠然とした死の不安が「お迎え」で不安軽減につながっているようです。

死と向き合う機会が減った現代、これからすべきこと

昭和の初めの頃は、三世代の家族が多かった。
自宅で祖父母など家族を看取るのが、当然のこととしてあり、
身近に死と向き合う機会はあった。

しかし、戦後は病院で亡くなることが当たり前となり、
死は病院で起こるもの。
医療従事者であっても、死は無力感や敗北感を感じるものとして、
タブーであると思われています。

でも、生きているもの全てが、死を迎えるのです。
死を避けては通ることができないのに、
現代を生きる私たちは、死を考えることを避けています。

自分の命の陰りを迎えた時、死への恐怖を感じます。
死を受け入れることは、容易ではありません。
それは本人はもちろん、周囲の家族もです。

今後やってくる死に対して、自分はどう向き合うのか、
きちんとした自分の生きる方向性を考える必要があると思います。

生きている時間には、限りがあります。
限りある時間のうちに、自分の生き方を考えませんか?
自分の最期に後悔しないように。

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